2009年12月16日

明治維新

慶応3年(1867年)江戸幕府15代将軍・徳川慶喜が、朝廷に大政奉還を行なった。これにより、朝廷は王政復古を宣言。討幕派と旧幕府勢力による戊辰戦争を経て明治新政府を成立させた。明治元年(慶応4年、1868年)3月に五箇条の御誓文によって新しい政治方針を示し、同年9月には年号を明治と改めて、改元を同年1月1日に遡って適用した。

新政府はまず運営にあたって、有能な人物の出仕を行った。民間からはまず最初に大阪で「適塾」一派の福澤諭吉を招こうとするが断られ、大村益次郎・寺島宗則・神田孝平・柳川春三を招聘。江戸にて再度、細川潤次郎が福沢諭吉を説得するも応じず。旧大名は薩摩藩と長州藩を中心に、土佐藩、肥前藩の四藩でほぼ構成された。公家からは岩倉具視と三条実美などが出仕し、連綿と政策を打ち出した。のちに森有礼らが召集した優秀な学者達は『明六社』を結成し、日本最初の「学会」が発足した。

新政府は欧米列強の軍事的・経済的圧力に対抗するために、天皇を中心とした中央集権国家の構築を目指した。新政府は、明治2年(1869年)には各藩に版籍奉還を命令し、明治4年(1871年)には、廃藩置県を行った。地租改正によって従来の米年貢を廃止し、金納地租に代えて財政基盤とした。国民には、江戸時代の自由の制限をなくし、身分の撤廃を行い四民平等とし、日本全国の行き来の自由を認め、職業の選択の自由や、散髪帯刀の自由など様々なことを改革していった。
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また、新政府は欧米列強の桎梏から脱出する為、富国強兵を国の重要政策とし、郵便制度の整備、鉄道の敷設、輸出産業の育成(一例が富岡製糸場)を行い(殖産興業)、明治6年(1873年)徴兵制を実施した(戸主は徴兵を免除されたので、主に戸主以外の次三男層や貧農層の子弟が兵役を担った為、血税一揆が起きた)。

征韓論をめぐって、強硬派の江藤新平・西郷隆盛・副島種臣・板垣退助・後藤象二郎の5人は大久保利通・岩倉具視らと対立し参議を辞任した(明治六年政変)。その結果、大久保利通の独裁体制が確立することとなった。

2009年12月01日

海外では麻薬をドラッグと呼んでいる

海外では麻薬をドラッグと呼んでいる。

依存性や毒性の強いアヘンやコカイン、覚せい剤等の麻薬は世界的に使用が厳しく規制されている。違法麻薬の流通によって引き起こされる社会治安崩壊を阻止する為に、国家と警察による厳しい取り締まりが行われている。しかし、集団犯罪組織が国家を通さずに違法麻薬を利用した栽培・製造・密輸・密売が横行している。少量で多額の利益が得られる事から反政府勢力や私兵組織、テロリストなとが生産に関わり、集団犯罪組織である暴力団、ギャング、マフィアなどが流通を担い重要な資金源になっている。一部ではアメリカ合衆国等からテロ支援国家と指定されている国家、また当のアメリカさえも中央情報局が、取引に関わっていると指摘される。取り締まりにより需給バランスが崩れていること、流通が地下に潜伏していることから末端価格は原価に比べてきわめて高い。

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オランダではドラッグをソフトドラッグとハードドラッグに分類し、大麻をソフトドラッグとして定義して、ほぼ合法として扱い、許可を受けた店舗で合法的に販売している。これによって犯罪組織の収入源を奪い、あらゆるドラッグを扱う密売人との接触機会を無くすことで、害が深刻なハードドラッグ類の蔓延を抑止する政策を取っており、実際にヘロイン使用者が減少し、大麻使用者も増加していないなど、一定の効果をあげている。
種類により症状は様々であるが、コカイン、ヘロイン、覚醒剤などの薬物では薬物依存症に陥りやすく、また依存症状が深刻になりやすい。また、コカインや覚醒剤では長期の薬物使用による幻覚状態や譫妄・錯乱状態に陥り、暴力・殺人などの犯罪を引き起こすことも珍しくない。あるいは薬物を購入するための資金を得るために、強盗などの犯罪の常習者になることもある。依存症に陥ったり、犯罪を犯すこと、逮捕されることによって、精神的にも社会的にもダメージを受け、人間関係が破壊されることで、自殺までに至る事例は少なくない。

2009年11月27日

炭鉱での採掘法

大規模な鉱床が存在する炭田では露天採掘が行われるが、それ以外の人的あるいは機械的労働では切羽という作業現場を作り採炭を行う「坑内掘り」が行われる。

坑内掘りには二種類の採掘法がある。

柱房式採掘法
一枚の炭層を碁盤目状に掘っていき、碁盤目の区域を順次採掘していく方法であり、比較的岩盤が丈夫な炭鉱で行われることが多い。アメリカでは比較的多用され、日本でも古くはこの方法が主流であったが、岩盤崩落による事故発生のリスクや機械導入の難しさなどを勘案して、下述の採掘法にシフトした。
長壁式採掘法
炭層の傾斜の下側に炭層に沿って片盤坑道という水平な坑道を掘っていき、そこから櫛状に削り取っていく方法である。この方法は、ドイツなど欧米で広く採用された採掘法であり、機械導入のしやすさから日本でも戦後の主流となった。
また、採炭の方法であるがドリルで穴を空け、そこに爆薬を仕込む発破採炭が手っ取り早く、岩盤が固い場合は有効である。しかし、それに用いる導火線が炭塵爆発やガス爆発を誘引しやすいため、ガス、炭塵が多い炭鉱では電気雷管を用いた硝安系の爆薬を用いる。この爆薬だと比較的威力が少なく、爆速が緩やかであるため、万が一の危険を比較的抑えることができるからである。

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また、坑内では機械を用いることも多く、様々な道具が発明された。コールピックで切り取ったり、カッターで削り取ったりするほか、切削と詰め込みを同時に行うホーベル(ドイツで開発)やアメリカでは柱房式が主だったため、高性能な採掘道具が開発された。また、ロシアでは高水圧を利用したドリルで採炭が行われた。そのほか、運搬道具としてのコンベアや岩盤の崩落を防ぐ鉄梁(カッペ)などが開発されている。尚、採掘した後は崩落を防ぐために廃石を充填している。

2009年11月13日

スジョングァ

スジョングァあるいはスジョンガは、韓国伝統の飲み物。干し柿などの甘味とショウガ・桂皮(シナモン)の刺激を味わうもので、特に食後のデザート飲料として好まれている。

韓国のフルーツポンチのようなデザート・ファチェ(花菜/五味子茶などに果実・ナッツを入れ、花や花形の果物などを浮かせたもの)のひとつとされ、婚礼などで振舞われていたものである。食後の口直しとしてシッケと共に広く好まれ、缶入りでも販売されている。

日本では韓国伝統茶のひとつとして紹介されることもある。
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一般的な作り方は以下のようなものである。シナモンスティックとスライスしたショウガを水に入れ、弱火でしばらく煮る。材料を取り出した後に砂糖(黒砂糖、ザラメ、蜂蜜など)を入れ、冷ました後に干し柿を入れ、数時間おく。冷たくしてから、切った干し柿と、松の実を浮かべて供する。

シナモンとショウガを別々に煮立てて、後で合わせるレシピもある。
黒コショウ(粒)を一緒に煮立てる場合もある。
器に入れる干し柿は、小さく切ったり丸ごとだったり、種を抜きクルミを入れてスライスしたり、あるいは入れないことも多い。
シャーベット状に凍らせる、ゼリーにするといった応用もある。

2009年11月01日

早期検査薬

hCGへの反応下限値が25mIU/mLに設定されており、順調に増加していけば、着床(=排卵の約9±2日後)から3日程度でこの水準に達する。よって、排卵の12±2日後あたりから陽性反応が検出できるようになると考えられるが、個人差を考慮し、遅い方に合わせて以下の時期を使用の目安としている。

推定排卵日もしくは性交日の2週間後以降
基礎体温などからその周期の排卵日と思われる日が特定できるなら、そこから14日後以降に検査する。
とある性交での妊娠を想定して検査する場合は、もしその性交で妊娠するなら(たとえ普段の周期から予想される排卵時期とは大幅に異なっていたとしても)実際の排卵もその付近で行われていたということになるので、便宜的にとりあえず性交日≒排卵日と仮定して、その14日後以降に検査する。この方法では、当該性交日より後にも性交渉を持っている場合は、そちらの性交での妊娠はまだ判明しない可能性がある。
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生理予定日(=排卵の約2週間後)以降
正確な排卵日推定ができる方法をとっておらず、かつ、周期中の性交回数も多くてどれで妊娠しているか不明な場合は、ひとまず普段の周期どおりの時期に排卵が行われたものと見なして、生理予定日以降に検査する。正常な月経が行われている女性なら、個々人の生理周期の長さにかかわらず排卵から生理までの期間は14±2日で一定だからである。ただし、この方法はあくまで普段どおりに排卵が行われたことを前提にしたものなので、実際の排卵日が予想より遅ければ正しい結果が出ない可能性がある。

2009年10月22日

活性水素水が活性酸素を消滅させるという論点から

活性水素水が活性酸素を消滅させるという論点から、良い効能を持つとして活性水素水を製造するとする装置が販売されることがあった。それらの装置の宣伝では活性水素水について、料理が美味しくなる、柔らかくなる、肌がすべすべになる、使うことで「万病を癒す魔法の水」などとしていた。いわゆるアルカリイオン水の生成機の宣伝トークとしてあるメーカーが使い始めたのが「活性水素水」がメディアに現れた最初のようである。通信販売で宣伝されている還元水素生成装置は医療機器のカテゴリーには存在しない。それらの装置の中には、いわゆる疑似科学商品のひとつと考えられるものもある。

なお、水素分子(H2)を溶解した「水素水」は、活性水素水とは学術的な面を含め区別される。
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2005年12月26日、公正取引委員会は東証1部上場の家庭用機器製造会社「シルバー精工」(東京都新宿区)、「日本ホームクリエイト」(港区)、「エッチアールディ」(横浜市)の3社に対して、「マイナスイオン水」「ミネラル還元水素水」などという言葉をつかって、誇大広告でかつ画期的な効能があるとの主張をしたとして(優良誤認)、排除命令を出した。

なお、公正取引委員会はある機能を主張する商品に対して、その根拠を示す技術資料の提出を求める権限を法的に持つ。

2009年06月21日

知的財産のうち、一定の明確な法律的権利が

知的財産のうち、一定の明確な法律的権利が認められているのが知的財産権であって部分集合である。知的財産として有益な発明発見であっても、特許権取得せず公知となった場合は知的財産権を与えられない。知的財産権にならない知的財産とは、公知となりまたは知的財産権が終了した知的財産、不正競争防止法の適用による不正表示・誤認表示による侵害が認められるもの、ノウハウ・ライセンス等または意図的に特許等に出願していない営業秘密と再定義できよう。上記では肖像権も知的財産に含める考えである。

また、現在日本ではコンピュータソフトウエアを著作権の対象として保護するのが基本であり、場合によっては特許権でも保護するケースがある。半導体回路配置権は、知的財産基本法で明記されていないが、知的財産権として保護の対象となる。ただし、半導体回路配置権と同一の保護を、米国法では著作権法の一部の章で保護されているのに対して、日本では別途特別法で保護するなど、保護の根拠法が異なるケースがある。日本などほとんどの国の特許法では先願主義により、同一の内容の出願では先に出願した者に権利が発生するのに対し、米国では先発明主義により、実際に発明した日が先の者に権利が発生するという違いもある。

知的財産権の始まり [編集]
知的財産の戦略とは、ごく最近の考え方なのではなく、本質的には遙か昔から形成されていた考え方である。つまり、製造方法の秘密と言えば分かりやすい。(これは、現在の日本で言うところの不正競争防止法で規定される「営業秘密」に相当する。)

例えば、紀元前2000?1200年頃に存在した、ヒッタイト帝国という古代帝国は、当時全く知られていなかった鉄の製法を知る唯一の国であった。ヒッタイトの鉄は極めて高価(金以上の価値)で交換されたと言われており、これらの取引が、ヒッタイト帝国に大きな富をもたらした。
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くの付く言葉
名犬マルチーズ
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猫ニャン
柴犬について
生命の誕生
りんごのほっぺ
版画
オークション
映画館
射撃
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トリックアート
証券取引所
乗馬
高血圧症
ゲートボール

同様な例として、古代から中国では、磁器や絹の製法が知られていた唯一の地域であった。これらの製法は、長い間秘密とされていたため、これらの産品を他の地域で産出することができなかった。当時の貿易においては、磁器や絹が、極めて高価で取り引きされ、この地域に大きな富をもたらした。

これは、古代ヒッタイト帝国の鉄の製造方法も、古代中国の磁器や絹の製法も、原始的な形ではあるが、国家戦略上、きわめて重要な知的財産であったことを意味している。このように、知的財産とは、本質的に「合理的な独占形態」を実現するための一手法である。

近代的な知的財産権の制度としては、ルネッサンス期のヴェネツィア共和国で誕生した特許制度が世界で最初の知的財産権制度と言われている。ガリレオがヴェネツィア公に懇願をし、その結果としてヴェネツィア共和国で、世界で最初の特許制度が公布されたと言われている

2009年06月03日

エールディヴィジ

エールディヴィジ(Eredivisie) は、オランダプロサッカーリーグの最上位リーグ。

2001年の小野伸二のフェイエノールトへの加入で、日本でも注目を集めるようになった。

また、2003-2004シーズンには藤田俊哉がFCユトレヒトに所属、2005年には平山相太がフェイエノールトの練習生として参加し、その後ヘラクレス・アルメロに加入した。

18クラブによる2回総当りで基本的に8月終わりに開幕して翌年5月に閉幕する。優勝クラブは次年度のUEFAチャンピオンズリーグへの出場権を得る。最下位(18位)のクラブはエールステ・ディヴィジ(2部リーグ)に自動降格(代わってエールステ・ディヴィジの優勝クラブが昇格)し、その次に成績の悪かった2クラブ(16,17位)とエールステ・ディヴィジの8クラブが入れ替え戦を争う。

リーグの歴史は1897年まで遡るが、プロ化されたのは1956-1957シーズンからである。レギュレーションは、1956年から18チームとほぼ変動していない。

1897年、オランダ主要都市で発足したチーム同士が競い合ったのをきっかけに、サッカーの普及とともに全国リーグの開催へと発展していった。しかし、第2次世界大戦前には多くの西欧各国のサッカーリーグがプロ化された中、オランダのリーグは1950年代までセミプロやアマチュアの体制をとるクラブがほとんどであった。
美容 人探し 癒し 成人病 お祝い 多汗症 不用品 英会話 生活雑貨 楽器教室 海外 若返り ホテル バスト 行政書士 養育 ビジネス 損害保険 リラク 仏具 介護 結婚 資格 産業 予備校 信越北陸 理容 賃貸 インプラント SEM促進 運送 介護 求人募集 運勢 リラク 乗物 介護 雑貨 専門学校 動物園 中国四国 近畿東海 若返り 資産運用 リフォーム エージェント 育児 介護 インテリア 健康 墓石

その後、オランダでもプロ化の機運が高まりはじめ、1954年にリーグがプロ化し、1956年にエールディヴィジが発足した。ちなみにプロ化以前の第2次世界大戦中、オランダはナチス・ドイツの占領下に置かれたが、オランダリーグ自体はアマチュアであったためか、リーグは例年通りに開催された(事情は違うが、スコティッシュ・プレミアリーグも第2次世界大戦中に通常開催している)。

優勝チームの趨勢としては、エールディヴィジ発足によりプロ化されてから現在まで、およそ50年あるリーグの歴史の中でアヤックス、PSVアイントホーフェン、フェイエノールトが優勝を寡占する傾向が強く、それ以外のチームではDOS(1957-1958)、スパルタ・ロッテルダム(1958-1959)、DWS(1963-1964)、AZ(1980-1981)の計4回にとどまっていた。しかし、近年はAZやFCトゥヴェンテなどのチームが徐々に力をつけて上位陣に割り込み、優勝争いの幅が広がりつつあった。そして、2008-2009シーズンにはAZが28年ぶりに優勝を決めた。

アヤックス、PSVアイントホーフェン、フェイエノールトの3チームが対戦する試合は「デ・クラシーカー(De Klassieker)」と呼ばれており、ダービーやクラシコなどと同じ意味あいで使われる。

2009年04月30日

黄金に対する欲望を見て取ったペルー

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どらんかあど美容・コスメ全国情報ガイド
ロードリィ ビジネスジャンプCOM
ブルーハワイ暮らし上手情報
アンルヴ最新の健康サーチ
レイトリーお買い物COM
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スペイン人の黄金に対する欲望を見て取ったペルーの現地人は、チリには黄金が豊富であり如何なる努力も惜しむべきではないと語った。アルマグロは急ぎ彼の遠征を準備し、6カ月以内にリマとクスコで兵を募集した。兵の装備は彼の個人財産で兵器、道具、火薬、その他の必要な物資を購入し整えられた。アルマグロは500人からなる兵力をまとめ、その多くが彼と共にペルーに集まった。また、補給物資を輸送するために100人のアフリカ人の奴隷と約1万人の現地人の奴隷も合流させた。これら全ての費用は、計150万カスティーリャ・ペソを費やしたと見積もる意見もある。[要出典]

アルマグロは、インカ帝国の高級官僚に依頼し、3人の信頼の置けるスペイン人の軍人毎の行軍ルートを準備した。インカ官僚は、最高位の神官長であったウィヤク・ウムを提供した。しかしインカ側は、スペイン人の大軍をペルーから去らしめることを計画していたのであった。ピサロが新首都となったリマに行きアルマグロがチリ方面の探検に出ている間に、インカ軍により容易に武装反逆を開始しクスコを奪回することができると考えたのである。

進軍途上であったアルマグロは、配下のフアン・デ・サアベドラ(後のペルー副王)に100人の男性と共に30リーグ進軍を続け、使役するため現地人を捕獲し十分な糧食とともに小さな町を建設し、残りの隊を待つように命令した。

2009年04月16日

貴族(きぞく)

貴族(きぞく)とは、血統や門地の故に社会的特権を認められている人やその一族。またはその身分。多くは世襲されるが、特別な功績により新たに貴族になることもある。君主の一族を特に「皇族」「王族」「公族」などと称し、これを貴族に含めない用語法もある。

貴族の概念と範囲 [編集]
まず貴族と一口に言っても、国によってその意味する範囲が違うので注意が必要である。特に日本の場合、貴族とは明治以降は華族とほぼ同義で、上は皇族と区別され、下は士族と区別されるある身分階層(公侯伯子男)を指すのが一般的だが、西洋では貴族(英:Nobility、仏:Noblesse、独:Adel)という語の中には、皇帝、国王、王子なども含まれ、それゆえ、皇族、王族と貴族を区別するという用語法はない。

また士族は、日本では明治以降は華族の下に位置づけられた旧武士階級を意味するが、そもそも、「士」という語は、古代中国(周代)では貴族の称号の一つであり、大夫の下に位置し、大夫とあわせて「士大夫」とも呼ばれ、それゆえ士族とはまさしく貴族を意味していたのである。

それゆえ、世界的に見れば、貴族とは平民の上に位置し、世襲により各種の特権を有する広い階層を指し、用語法によっては皇族、王族、僧侶階級なども含む場合があるので、こうした概念の違いに注意する必要がある。

日本の貴族 [編集]
日本における貴族の歴史を概観すると、ヤマト王権期の豪族層に由来する古代貴族がまず形成された後、平安時代前期には従来の古代貴族に代わって藤原氏や源氏が上流貴族層を占めていった。中世前期にこれらを母体とする公家層が形成された。公家層は中世後期以降、経済的実権と政治的実権を喪失しつつも、明治維新期まで存続した。一方、中世には、武士階級の最上位層(武家棟梁)が貴族化する動きを継続して見せており、近世に入ると家格の固定に伴って将軍家や大名層が武家貴族を形成した。明治維新期に至り、公家貴族と武家貴族を中心とする上流階級が華族へと移行したが、太平洋戦争での敗戦に伴い華族制度は廃止され、日本の貴族は消滅した(ただし、皇族は除く)。

古代 [編集]
日本における貴族の登場は、7世紀後半から8世紀初頭の律令制成立期に求められる。このとき貴族の母体となったのは、豪族階層であった。7世紀以前の倭国(日本)では、ウヂと呼ばれる同族集団が形成されていたが、そのウヂ集団を統率する族長たちが豪族階層を構成していた。当時のヤマト政権は、ウヂ集団 = 豪族たちの連合政権としての性格も有していた。しかし、7世紀後半の天智・天武期以降、天皇(大王)への権力集中化が急速に進み、中央豪族らは官人として再編成されていった。

大宝元年(701年)に制定された大宝律令のもとで、旧来の豪族は位階に応じて序列化された。三位以上を「貴」、四・五位を「通貴」という。「貴」は貴人を意味し、「通貴」は貴人に通じる階層を意味した。これら「貴」「通貴」及びその一族を貴族と呼んでいる。「貴」と「通貴」とでは与えられた特権に著しい差があったため、「貴」は上流貴族、「通貴」は中流・下流貴族に位置づけられている。貴族は経済的特権として、国家から多大な収入が与えられていた。五位以上には位田、四・五位には位禄、三位以上には位封、さらに太政大臣・左右大臣・大納言に任官すると職田・職封が給与された。このほか、位分資人・職分資人なども与えられた。これらの収入は、三位以上と四・五位の間に大きな格差が設定されており、さらに大きな格差が五位以上と六位以下の間に設けられていた。また身分特権として、位階に応じて子孫が位階を得る蔭位制度があった。蔭位により、貴族は子孫へ各種特権を世襲することが容易となっていた。

日本の律令制の特徴は、貴族の合議機関である太政官が政治決定の枢要とされた点にある。唐律令では、天子直属の中書省と貴族代表の門下省とが政治決定の場において拮抗していたが、日本律令では天皇直属の中務省は太政官の下に置かれていた。これは、中国より日本の方が貴族の役割を重視していたことを表す。

太政官において国政審議に参与する貴族らを議政官(公卿)というが、律令制が開始した8世紀の代表的な議政官氏族を挙げると、安倍氏、大伴氏、藤原氏、多治比氏、紀氏、巨勢氏、石川氏らであった。慣例的に各ウヂから議政官となるのは1人だけとされており、議政官は氏族代表者会議としての性格を有していた。ところが、8世紀30年代ごろから藤原氏議政官が複数現れるようになると、藤原氏議政官が増加の一途をたどるのに対し、他氏族の議政官は次第に減少していった。

貴族社会全体でも、藤原氏の増加と他氏族の没落が見られた。こうした傾向に拍車がかかったのは、8世紀末-9世紀初頭の時期とされている。義江明子は、ウヂが持っていた在地性・両属性がこの時期に失われ、ウヂの再編が起こったとする[1]。宇根俊範は、桓武天皇は従来と異なる方針で諸氏族の改賜姓を行い、このため貴族社会における各氏族の序列が大きく変化し、源平藤橘を頂点とする新たな貴族社会秩序が生じたとする[2]。

平安時代初期の議政官を見ると、藤原氏のほか、源氏、橘氏、清原氏、菅原氏などのように、奈良時代には見られなかった氏族が急速に台頭していた。880年ごろには、議政官氏族の多様性が失われ、藤原氏・源氏が議政官のほとんどを占めるようになった。藤原氏は摂政・関白の地位を獲得し、それを世襲することに成功した。以降、10世紀から11世紀にかけて、藤原氏嫡流(摂関家)は、天皇の外戚、すなわちミウチとして代々摂関となって貴族社会の頂点に位置し、10世紀から11世紀にかけて摂関政治と呼ばれる政治形態を布いた。ただし、通俗的な理解とは異なり、摂関家は専横的に権力を振るったわけではない。摂関といえど独裁的な国政決定を行なうことはできず、重要な国政決定はすべて陣定などの公卿会議を通じて行なわれていたのである。

先述したとおり、9世紀後半から10世紀にかけての時期に、上流貴族が藤原氏・源氏にほぼ限定されると、他氏族は中下流貴族として存続する道を模索し始めた。10世紀初頭、王朝国家体制への移行に伴い、律令機構や権能を特定者へ請け負わせる官司請負が行なわれ始めたが、機構・権能の請負いに成功した中下流貴族は、その機構・権能を家業と位置づけ、それを世襲する家業の継承を行なうようになった。例えば、武芸・軍事を家業とする中下流貴族は「兵(つわもの)の家」と呼ばれ、押領・追捕・追討活動に従事する軍事貴族となり、武士の母体となっている。この官司請負と家業の継承は、11世紀以降、貴族社会に広く見られるようになり、中下流貴族は、家業の継承や受領職の獲得などにより生き残りを図ったのである。家業の継承を通じて、家産(家の財産)の蓄積が進み、貴族社会に「家」概念が登場することになった。

摂関政治、官司請負、家業の継承が始まった10世紀前半は、その後の貴族社会において最重要事項とされた朝廷儀式・宗教儀式の標準作法が形成された時期でもある。非常に多数の年中行事からなる儀式は、細部まで作法・様式が決められており、儀式を滞りなく執り行うため、『西宮記』『北山抄』などの儀式書も作られた。

中世 [編集]
貴族社会に登場した「家」概念は、11世紀後半に天皇にまで及び、天皇家の家督者が上皇として政務に当たる院政の開始をもたらした。上流貴族の間にも「家」概念が浸透していき、荘園所領が家産として集積されるとともに父系継承された。それまで、貴族社会では財産の母系継承が通例だったが、12世紀ごろから父系継承が慣例化していく。

11世紀ごろまで、貴族の主たる経済基盤は、奈良時代と同様、国家から支給される位田・位封等であり、荘園からの収入は多くなかった。11世紀後半から12世紀にかけて、荘園が急速に増加するとともに、それに対応して国衙領が再編成され、荘園公領制という中世的収取体制が成立、また並行して知行国制が成立すると、貴族の経済基盤は、荘園および知行国へとシフトしていった。

院政の開始により、貴族社会における家の登場に至ったが、家内部の主導権争いも徐々に現出し始めていった。この家内部の争いが最も先鋭化したのが12世紀中葉の保元の乱である。貴族社会の政争が武力解決されたことは、乱で活躍した平清盛一族の急速な台頭をもたらした。平清盛は中流貴族の軍事貴族に過ぎなかったが、続く平治の乱を経て、上流貴族の仲間入りを果たした。しかし、平清盛一族は治承・寿永の内乱で滅亡し、軍事貴族に出自する源頼朝政権が勝利したが、源頼朝は上流貴族とはならず、東国政権(鎌倉幕府)の支配者(鎌倉殿)となることを選択した。

武力をもって朝廷に仕える鎌倉幕府が武家と呼ばれるようになると、従来の貴族は、政務一般で朝廷に奉仕する文官、すなわち公家と呼ばれるようになった。東国を支配する幕府を武家政権とするのに対し、中央の朝廷を公家政権ともいう。12世紀から13世紀にかけて公家社会の中で家格の固定化が進み、家格によって昇進できる官職が定まっていた。

鎌倉幕府は、その当初、朝廷に対し政治的にも武力的にも優越する意図を持っていなかったが、承久3年(1221年)の承久の乱によって、幕府は図らずも朝廷に優越することとなった。ただし、幕府が日本における唯一の政権となったわけではなく、その後も朝廷(公家政権)と幕府(武家政権)が並立する状況に変わりはなく、相互に協調して重要政治課題に当たることも少なくなかった。

鎌倉時代の貴族の主要な収入源は、平安末期と同様、荘園所領及び知行国であった。しかし、この時代は武士である地頭が、その武力を背景として貴族の荘園所領を侵食していった。室町時代に入ると、守護に強力な権限が与えられたため、地頭に代わって守護による荘園侵食が著しくなった。こうして貴族による荘園・公領支配は次第に失われていき、室町中期の15世紀後半までに荘園公領制はほとんど崩壊してしまった。貴族は中央(京)に在住し、地方の荘園・公領からの収入が京進されるのを待つのが室町初期までの通例だったが、それ以降は代官を直接荘園に派遣したり(請負代官制)、さらに自ら直接荘園に下向して支配に当たる例すらあった。

また、京都に基盤を置く室町幕府の開始とともに、公家政権の権能は徐々に幕府へ奪われていき、足利義満執政期に公家政権は政権としての機能をほぼ失った。政治権力も経済基盤も失った貴族階層は、室町中期から戦国時代にかけて困窮を極めたものの、消滅するには至らなかった。

近世 [編集]
近世においては、江戸幕府の成立以降、戦国時代にほぼ無秩序化した身分階級の再構築が図られた。貴族階層に対しては、幕府から禁中並公家諸法度が制定され、公家社会は幕府の統制を受けるようになった。公家社会では、鎌倉時代以来、家格が定まっていったが、江戸時代になると鎌倉時代以来の公卿を旧家、安土桃山時代以降に成立した公卿を新家とし、公家家格の再編成が行なわれた。

公卿などの上流貴族は3000石から数百石が扶持されていたが、中下流貴族は数十石程度の扶持しか与えられず、貧困生活を送った家も少なくなかった。

一方、長らく流動的であった武士階級においても、社会の安定化に伴って、武士各家の家格が固定されていき、上流武士階級を世襲していった将軍家や大名層は、いわゆる武家貴族を形成するに至った。

近代 [編集]
明治2年(1869年)、明治政府は新たな貴族階級として華族制度を創始した。華族は、元皇族、公家、大名、明治維新時の勲功者から構成されていた。華族には身分上・財産上の特権が与えられ、明治22年(1889年)に大日本帝国憲法が制定されると、貴族院議員となる特権も与えられた。

しかし昭和22年(1947年)、貴族制度の禁止と法の下の平等を定める日本国憲法の施行とともに、華族制度は廃止され、日本における貴族身分は終焉を迎えた。ただし例外として、貴族制の一種である天皇制は保全された。

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